心のこと…

「医科心理学」の知識を遊ぶ

こぼれ話;私たちは本当に自分の「意思」で動いているのか?

  これまでの「道具をつくり、使うこと」、「歌と音楽」、そして「言語活動」の議論からおわかりのように、これら3つの人間独特の行動は全て基本的に同じものです。「目的に対して直線的に方向付けられた、階層構造を持ち順序立てられた動作」のプログラミングをする能力とそのプログラミングを解釈する能力による、すごく広い意味で「道具をつくり、使うこと」そのものです。この意味で、私たちの人間にとって「音楽や歌」も「言葉」も「道具」なのです。すぐに言語化することができる「意識的な思考」も「道具」です。(意識的な思考には、「道具をつくり、使うこと」と同じ、「目的に対して直線的に方向付けられた、階層構造を持ち順序立てられた」思考の操作をする、という性質があることは、ちょっと自分の意識的な思考を振り返るとわかるはずです。)こうしてみると、私たち人間は(起きている時は)いつでもつねに 「道具」をいじっていることになります。そのくらい、私たちは「道具をつくり、使うこと」ばかりしているわけですし、「道具をつくり、使うこと」は私たちの意識的な活動そのものだとも言えそうなくらいです。

 

  ここで、ちょっと「意識的な思考」と言うものを考えてみたいです。

 

  素人考えでは、私たちは自分の「意識的な思考」によって思考し、動いているのだと考えがちです。知り合いが向こうから歩いてくるのが見えたから、挨拶がわりに立ち上がって手を振ったのだと考えがちです。喉が渇いたから喉をうるおそうとお茶をいれて飲んだのだと考えがちです。頭がかゆかったからかゆみをとろうと頭を掻いたのだと考えがちです。野原で蛇を見て危険だと感じ不安になったから叫び声をあげて飛び退いたのだと考えがちです。私たちは、普通に、自分は自分の意識的な意思で動いているのだと考えがちです。

  …しかし、最近の科学的な知見では、実はそうではないことがわかって来たのです。私たちは、誰も自分の「意思」(意識的な意思)などで動いているのではないのです。私たち自身が自覚する、意識する「自分」が自分の主人ではないのです。

 

  いったい、どういうことか?

 

  古くはフロイト Freud Sの「無意識の発見」にさかのぼります。 当時、フロイトはフランスの高名な神経内科シャルコーの催眠実験を見て「無意識」が人の感情反応や行動を決定づけていることに気づきました。その当時よく行われていた催眠実験では、被験者の患者に催眠術をかけてあれこれ暗示を与え、本人の意思ではないのに、いろいろな動作をさせていました。その中でも強烈だったのは「後催眠暗示 posthypnotic suggestion」という現象でした。催眠中に「あなたは、催眠から覚めて私(術者)が手を叩くと、立ち上がって右手をあげる」とか「水を飲む」とかの暗示を与えるのです。そしてその暗示を与えられたことをすっかり忘れてしまうという暗示も与えます。その後、被験者を催眠から覚まして、術者が手を叩くと、被験者は暗示されてた通りの行動をするのです。被験者は意識がある状態で、実際に「自分の意思で」そうしているように、「立ち上がって右手をあげる」とか「水を飲む」とかするのです。そして、術者が「なぜ、そんな行動をしたのですか?」と聞くと、被験者たちは決まって、そうした行動があたかも自分の意思であったかのようなことを言うのです。「向こうに知り合いがいたような気がしたから、立ち上がって手を振ろうと思ったのです」とか「喉が渇いたので、喉をうるおそうと水を飲んだのです」などです。驚いたことに、被験者は本気でそう思っているのです。決して、適当な「言い訳」を意図的にこしらえているのではないのです。

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  これはいったいどういうことか? 当時フロイトが考えたのは、人は本当は自分の意識的な意思・意図などで動いているのではなく、人の行動や感情反応は大部分が無意識的に決定されているのであり、意識的な「意思・意図」は無意識的にこしらえた後付けの言い訳にしか過ぎないのだ…という(当時としては)驚くべき結論でした。

 

  それからずいぶん経って、脳の機能のいろいろなことがわかってきました。フロイトの頃とは違い、私たちの脳は、私たちが意識できることよりはるかに大量の情報を一度に処理しており、私たちが意識できることは、そのうちのほんの一部でしかないこともわかってきました。(フロイトの頃の「無意識」は、基本的にはもともと「意識」にあったものが、心理的な不都合のために、無意識の領域に押しやられたもの、ということになっていました。実際には、無意識はもっともっと広く、むしろほとんどのことが無意識的に処理されていて、意識のあがってくるのが例外的なごく一部だった、ということだったのです。)

 

  そうした中で、有名な「分割脳 split brain」の実験があります。

 

  人間の大脳皮質は右半球と左半球からできていますが、その両方をつなぐ大掛かりな神経線維の束として「脳梁」という構造があります。このために、右脳で処理された情報も、左脳で処理された情報も、基本的には両方の脳半球で共有することができるのです。

 

  ところが、難治性の癲癇の治療として、左右の脳半球をつなぐ「脳梁」を離断する手術がありました。この手術を受けた後の患者は右脳と左脳があまり情報共有することなく、あたかも別々のように動くのです。

 

  そこで、右脳の機能と左脳の機能を別々に調べるために、この手術を受けた後の被験者に対して、右脳と左脳に別々の情報を与えて、それぞれをどのように処理するかを見てみる実験がなされたのです。

(右脳と左脳に別々の情報を与えるのはどうするのか? 例えば、視覚情報の場合、右視野にあるものは左脳が、左視野にあるものは右脳が処理します。 あるいは右手が持っているものの触覚情報は左脳が、左手が持っているものの情報は右脳が処理します。このようにして、右脳と左脳に、どちらかだけが受け取ることができる情報を与えるのです。)

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  その結果、面白いことがわかりました。

  例えば、視覚情報として、右脳に「雪景色」のイメージ、左脳に「ニワトリの足」のイメージを与え、(右脳が支配する)左手と(左脳が支配する)右手に関連するアイテムを選ばせる課題を行わせます。すると、「雪景色」を見ている右脳は、関連するアイテムとして「雪かき用のスコップ」を左手が選ぶことをさせます。他方で、「ニワトリの足」を見ている左脳は、関連するアイテムとして「ニワトリの頭」を右手に選ばせます。まあまあ、もっともな反応です。しかし、面白いのはここからです。被験者に「なぜこのアイテムを選んだのか?」と質問します。左脳にある「言語中枢(のメイン)」は「ニワトリの足」を見ていることも、右手が「ニワトリの頭」を選んだことも知っていますから、普通に「それは当たり前です。ニワトリの足の絵を見たから、ニワトリの頭のアイテムを選んだのです」と意識的な言葉で答えられます。しかし、右脳は言語中枢(のメイン)がないので、自分がやっていることを意識的な言葉で説明することができません。かわりに、右脳がやっていることを見ていた左脳がその行動を解釈して、こう答えるのです;「そして、ニワトリ小屋の掃除にはスコップが必要でしょう。」

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  そうなのです。ここでもやはり、私たちの「意識的な意思・意図」というのは、私たちが行っている行動の本当の動機になっていないのです。むしろ、自分がやっていることを観察し、そこにある「目的に方向付けられてた、階層構造を持ち順序立てられた動作」のプログラム(=「意図」・「意思」と呼べるようなもの)を(当てずっぽうでもなんでも、一見するとそれらしい説明として)解釈しているだけのようなのです。

 

  そう、私たちが普段は自分のものだと思っている、自分の「意思」や「意図」、意識的な「気持ち」といったものは、もともと私たちの遠い祖先が進化の過程の中で他人の行動、特に「目的に方向付けられてた、階層構造を持ち順序立てられた動作」プログラミングを解釈するために獲得した機能を、自分自身の行動に対して転用しただけのもののようなのです。

 

  私たちの脳の中では、常時とんでもなく大量の情報があまりにも複雑に処理されています。それをわかりやすく、それこそ両手でつかめる程度の簡単な「道具」にすること、そうして伝えやすく、理解しやすく、取り扱いやすくしたもの…それが「意識的な思考」であり、私たちが普段「自分の気持ち」だと意識しているものであり、自分の行動を決定づけていると勘違いしている自分の「意思」や「意図」の正体なのでしょう。私たちは両手でものを操作するように頭の中で意識的な思考をしており、頭の中にある作業スペースが「意識」そのものなのです。

 

  そうやって考えると、よく法律家が言う、「その行為は意図的なのか?故意ではない、そのつもりではなかったのか?」といった議論は、ほとんど意味がないのだろうな、ということになっちゃうのですが。

 

 

 

参考書

Gazzanuga MS.  Cerebral specialization and interhemispheric communication.  Brain, 2000; 123: 1293-1326.