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心のこと…

「医科心理学」の知識を遊ぶ

進化論の話7

二、三十年くらい前は、脳の「言語野」はどのように考えられていたか?

 

  ここからしばらく進化論的な「言語」能力と「道具をつくり使う」能力の関わりを考えていきます。

 

  その前に、脳の構造・機能として「言語」能力が昔はどのように考えられていたのかを振り返りたいと思います。「昔」とはいっても、たかだか二、三十年前、ちょうど私が学生の頃です。

 

  その頃使っていた教科書(Snell's Clinical Neuroanatomy for Medical Students, 2nd Ed;スネルの医学生のための臨床神経解剖学、第2版、1987年)を引っ張り出してみます。

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  おおかた、今でも正しいとみられているのですが、私たちの大脳皮質にはかなり機能が局在しています。大脳皮質は縦方向に溝があって、左右に分かれていて、それぞれ左半球、右半球などと呼ばれたりします。 そして横方向に大きな溝ががあって、それより前が「前頭葉 frontal lobe」と呼ばれ主には運動(生き物が外界に働きかけていくこと)に関わり、それより後ろが「頭頂葉 parietal lobe」と呼ばれ主には感覚(生き物が外界から情報を取り入れていくこと)に関わります。さらにその後ろが「後頭葉 occipital lobe」であり視覚情報の処理に、その横が「側頭葉 temporal lobe」であり聴覚情報の処理にあたります。

  私たちが「運動」「動作」をするのは、この前頭葉にある運動野がその命令を出しているのですが、個々の筋肉群に細かい指令を出しているのが「一次運動野 primary motor area」です。ところが、ごくごく簡単な動作、例えば「テーブルの上にあるナッツを手で取って食べる」という動作にしても、実は非常に複雑な動きが階層構造によって組み上げられています。(こうした一連の動きをどうしてわざわざ「階層構造的」だと表現するのかは、もう少し後でご説明します。)こうした、一つ一つの「動き」を階層構造的に順序立てて組み上げて、一続きの「動作」にしていく、つまり運動プログラミングをしていくのが「二次運動野(運動前野)」ということになります。いわば、「動作」の概念化、内的な表象をつくっているわけです。

  同様に、感覚系も「一次」と「二次」があります。触覚などの体性感覚にしろ、目からの視覚にしろ、耳からの聴覚にしろ、すべて大脳皮質の「一次体性感覚野」、「一次視覚野」、「一次聴覚野」にまずは送られます。この時点ではほぼ生の感覚情報でしかありません。それが「二次野」に情報が送られていく中で、これがどういう性質があり、何であるかが分析されていくわけです。最終的にはいくつもの感覚情報が統合され、過去の記憶と照合され、「理解」がなされていくわけです。(この感覚情報の統合と過去の記憶との照合は頭頂葉、側頭葉、後頭葉が出会うあたり、つまり頭頂葉の下の方、この後で出てくるウェルニッケ領域あたりで行なっている、ということになるのです。)

 

  さて、大脳皮質はそんな風に機能が局在していることが知られれいるのですが、その中でも特に奇妙なのが、人間における「言語野(言語中枢)」の存在です。

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  私たちが学生だった二、三十年前に大脳の解剖学を学んだ頃には、人間の「言語中枢」は、大部分の右利きの人にとっては左半球にあり、言葉をつくり出すのは「運動性言語中枢」≒「ブローカ領域 Broca' s area」、言葉を聞き理解するのは「感覚性言語中枢」≒「ウェルニッケ領域 Wernicke's area」だとされていました。 例えば、上記の解剖学の教科書にはこんな風に記載されていました:

 

『ブローカの運動性言語野は、下前頭回のブロードマンの44、45野に位置している。大多数の人にとって、この部分は大脳の左半球あるいは優位半球において重要であり、この場所が損傷すると言語麻痺に陥る。少数の大脳右半球が優位半球の人にとっては、この部分の右側が重要になる。優位半球ではない方のこの部分の損傷は言語になんの影響もない。』

 

  『ウェルニッケの感覚言語野は左の優位半球の、主には上側頭回から側頭回をぐるっと回って頭頂葉まで伸びている。ウェルニッケ領域はブローカ領域と神経線維の束で繋がれている。ウェルニッケ領域は後頭葉の視覚野から神経線維を受け取り、側頭葉の上側頭回の聴覚野からも神経線維を受け取っている。ウェルニッケ領域は、文字や声による言葉の理解を可能にしており、人が文章を読み、理解し、声に出すことを可能にしている。』

 

…いったい、脳のこの場所にこんな機能があることをどうやって推定していたのでしょう? その当時は脳機能画像検査(fMRIなど)もなかったので、病気や怪我で脳のこの部分を損傷した人にどのような症状が出るか?といったことから、この部分の機能を推定していたのです。すると、ブローカ領域を損傷した患者さんは(単語など簡単な)言葉を理解することはできても、自分で言葉を使うことはできなくなることから、この部分が言語活動の運動性の機能をつかさどっているのだろうと考えたのです。同様に、ウェルニッケ領域を損傷した患者さんは意味をなさない言葉らしきものを喋ることはできても、言葉を理解する能力が失われてしまうので、この部分が言語活動の感覚性の機能をつかさどっているのだろと考えたのです。しかも、これらは基本的に「優位半球」のことであり、優位半球ではない方(多くの人にとっては右脳)は、損傷されても目立った言語障害が出なかったことから、言語活動には関与していないのだろうと考えられていたのです。

 

  でも、どうなんでしょうか? いくつもの疑問が生じます。

 

  なぜ言語中枢だけ、こんなに極端に左右に機能が分かれてしまっているのか? 本当に「優位半球」ではないもう片方(多くの人にとっては右脳)は言語活動に関して何もしていないのか?

 

  動物の中で言語を持つのは人間だけなら、他の動物ではどうなっているのか? 人類の進化の中で、人類が言語能力を獲得した時に、脳のこの部分が「言語中枢」として突如生じた、とは考えにくくないか?

 

  言語によって形を与えられている「意識的思考」とはいったい何なのか? 私たちが意識する自分の「気持ち」や「行動の意図」は本当は私たちの行動の原因ではないことがわかっている。むしろ、私たちの行動は無意識的に引き起こされていて、「意識的な意図」は後付けの説明に過ぎないことがわかっている。そうであるなら、私たちの「意識」の中に私たちが感じる自分の「気持ち」や「意図」にはいったいどういう意味があるのか?

 

  さらにいうと、私たちが意識する「自分」とはいったい何なのか?

 

 …こうした疑問を解いていくには、人類が言語能力を獲得した進化論的な背景を探り、言語能力と並んで人類に独特の能力である「道具をつくり使う」能力の獲得との関係を見ていかなくてはならないのでした。

 

 

参考書

Snell RS.  Clinical Neuroanatomy for Medical Students, 2nd Ed. (1987)  Little,Brown